秦迷惑の駄洒落小話

大切なお言葉を駄洒落小話に引用した私の愚かさを恥入っていますが、世界に一つしかない私自身の三帰依文を御笑読ください〔住職:秦信映〕

私の三帰依(消え)文①

人参(にんじん)食べ難し(たべがたし)、今すでに受く(いますでにうく)、牛蒡歯に堅し(ごぼうはにかたし)、今すでに棄く(いますでにきく)。此の身根性(このみこんじょう)において食すれば(しょくすれば)、更にいずれの食品(さらにいずれのしょくひん)においてか好みを問わせん(このみをとわせん)。大衆食堂(たいしゅうしょくどう)ともに、脂身(ししん)の割烹(かっぽう)に食し(しょくし)たてまつるべし。【つづく】

【意訳】

私は小さい時からニンジンが嫌いでなかなか食べられなかった。しかし、仏様から食べ物にはいのちがあるのだと教えていただき、お陰で何とか食べられるようになった。しかし、さずがに歯の悪い私にはゴボウは堅く、仕方なく棄ててしまった。皆から食べ物の好き嫌いを注意され、根性で偏食を直そうと努力した結果、ようやくどのような食品に対しても好き嫌いがなくなった。けれども、大衆食堂へ行くと、いつもの癖が直らず脂身の料理ばかり食べてしまうので困ったことだ。

2018年02月12日

私の三帰依(消え)文②

自ら物(みずからぶつ)に消(き)えしたてまつる。まさに願(ねが)わくは素性(すじょう)とともに、態度を懺悔(たいどをさんげ)して、無冗意(むじょうい)を発(おこ)さん。

自ら泡(みずからほう)に消(き)えしたてまつる。まさに願(ねが)わくは事情(じじょう)とともに、深く胸胴(ふかくきょうどう)に入りて、血穢膿み(ちえうみ)のごとくならん。

自ら葬(みずからそう)に消(き)えしたてまつる。まさに願(ねが)わくは死状(しじょう)とともに、体臭を湯離(たいしゅうをとうり)して一切有煙(いっさいうけむり)ならん。 【つづく】


【意訳】

私の食事は、いつも食べるものが無くなるまで食べてしまい、そういう生まれながらの性分と態度を恥ずかしいことと深く反省しなければならない。冗談を言っている場合でない。

私の体は、食事の好き嫌いからどうしても脂身の多い食事に偏(かたよ)っている事情から、穢(けが)れた血が膿(うみ)となって胸や胴に回り、命が泡のように消えてしまうかもしれない。

私の体は、死体の状態で湯灌(ゆかん)し身体から脂臭い臭いを離そうと努力しても、清らかな身体にはならないのではないかとの畏(おそ)れが起こるが、結局火葬にしたら、すべてが煙となってその臭いも消えてしまう。

2018年02月24日

私の三帰依(消え)文③

極上(ごくじょう)人参(にんじん)味妙(みみょう)の烹(ほう)は、百選(ひゃくせん)マンゴーにも相応(あいおう)堅(かた)し。我(われ)今(いま)謙遜(けんそん)し数珠(じゅず)することを得(え)たり。願(ねが)わくは本来(ほんらい)の真実(しんじつ)喜(ぎ)を得(え)したてまつらん。(完)


[意訳]
美味たる極上のニンジン料理は、選ばれ最も美味しい食べ物といわれているマンゴーにも匹敵し、工夫して食すれば好き嫌いは無くなるものだ。すべての食べ物には「いのち」があることを謙虚に受け止め、脂身の多い食事から野菜を中心としたバランスの良い食生活に心がけることが大切だ。
好きなものを食う食事から、いのちをいただく食事へと転換し、「いただきます」「ごちそうさま」と数珠を持ち、念仏申す身にさせていただくことに心がけていきたい。願うならば、食事ということにおいても、本来の仏様の真実なる教えに出遇う御縁であったと喜ばずにはおれないことを忘れずにいたい。

 

2018年03月25日

御文シリーズ① 聖人(商人)、一流(一柳)の巻

商人、一柳(いちりゅう)の豪家(ごうけ)のおもむきは・金銀をもって本とせられ候。その家は、ぼろぼろの造形(ぞうぎょう)を投げ捨てて・一心に無駄を棄行(きぎょう)すれば、不可思議の雁力(がんりき)として、大津の方(かた)より、鴨盛(おうじょう)は事成(じじょう)せしめたもう。その蔵家(くらいえ)を・七輪発起入(ひちりんほっきにゅう)焼上死受(しょうじょうしじゅ)とも寂(じゃく)し、そのうえの生命人物(しょうみょうじんぶつ)は、女来滋賀王城(にょらいしがおうじょう)をさだめたまいし、御恩不忘心(ごおんふぼうじん)の念仏とこころうべきなり。
                                  はたかしこ、はたかしこ


[意訳]
昔々、近江商人であった一柳家の豪邸は、金銀の贅を尽くしたものでした。
その一柳さんの家は、今までみすぼらしいぼろぼろの家でしたが、一心に無駄遣いを嫌い、蓄えに蓄えた財宝を投げ捨てるように使い果たし、建てたものでした。不可思議なことに、琵琶湖の大津方面から雁や鴨なども建設に協力してくれて、立派な豪邸が建ちました。
しかし、その豪華な蔵や家も、新築の祝宴に使った七輪の火の不始末によって、一瞬のうちに炎上し焼失してしまい、地元の商人やたくさんの鴨も死に、寂しい状況になりました。
幸いにも生き残った人物は女性ばかりでしたが、後に滋賀県一といわれるような王城を建立されました。
先人の御苦労や鴨の協力に対する御恩は忘れてはならないと、近江商人は、今でも「鴨舎(おうしゃ)城(じょう)の悲劇」と言って、念仏をたやされないと言うことです。


2018年05月05日

御文シリーズ② 末代無智の巻

御文シリーズ② 末代無智の巻

[原文]
 末代無智の在家止住の男女たらんともがらは こころをひとつにして 阿弥陀仏とふかくたのみまいらせて さらに余のかたへこころをふらず 一心一向に佛たすけたまえともうさん衆生をば たとい罪業は深重なりとも かならず弥陀如来はすくいましますべし これすなわち第18の念仏往生の誓願のこころなり かくのごとく決定してのうえには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは 称名念仏すべきものなり 

あなかしこ あなかしこ

[秦迷惑作]
 末代愚痴の座位家40の男女団らんともがらは 所を古都にして 減らず愚痴を深く忍びまいらせて 更に夜の方へ言葉を発せば 一唇一光に愚痴透けたまえた坊さん寺住御葉 たとい賽銭は少数なりとも かならず弥陀如来は救い増し増すべし これすなわち題18のブツブツ強情の晴眼のことになり かくのごとく欠如してのうえには 寝ても起きても いのちのあらんかぎりは 笑明「ブツブツ」すべきものなり

  はたかしこ はたかしこ

[意訳]
 昔から人間は、40歳ぐらいの中年になると、男も女も家の中で座って団らんのひと時も愚痴ばっかり言っていた。そういう人は一度京都の東本願寺へ奉仕上山し、愚痴の減らない我が身の恥を忍び、夜の座談会で正直に懺悔の言葉を発せば、すでに唇に仏様の光が照らされて、愚痴ばかり言っていた口元が透けて見えて、悟りを開かれたお寺に住んでいるお坊さんが教導でおられるので、そのお坊さんから仏様のお言葉を聞けば、たとえお賽銭が少なくても必ず阿弥陀さんは私を救ってくださいます。より増して救いを求めるならば、題目ではないが、「ブツブツ」を強く18回言うと、自分の情けない正体が正眼できることになるとも言われている。とはいっても油断すると失念してしまうので、寝ていても起きているときもいのちのあらんかぎりは、めんどくさらずに、笑って明るく「ブツブツ」言うことをお勧めします。


                      はたかしこ はたかしこ


2018年06月24日